世代を超えて受け継がれた翻訳力

読書が大好きな私。通勤中は混雑の中、やや空いているときは大体、本を読んで過ごしています。そして嬉しいことに、会社の最寄駅には、改札を出るとビルの地下に本屋さんがあり・・・平均すると1週間のうち2~3日はそこに寄っているんじゃぁないかと・・・色々と立ち読みしたり、探し物したり、買う本を選ぶために走り読みしたりして、朝の約10分ほどを費やしています。

今週になって、いつものように新刊文庫本のコーナーを見ていたら、パッと目に飛び込んできた本がありました。
それがこの2冊です。
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赤毛のアンのシリーズですって?それも11番目の?
アンのシリーズは新潮文庫の10冊で終わりじゃぁなかったの?って思いつつ、すぐに手にとってみました。
後ろの解説の部分を見ると、間違いなくルーシー・モンゴメリの作で、パラパラと走り読みをした後、即購入。

そして、今、ワクワクしながら読み始めています。
久しぶりに本棚からアンのシリーズを出してみました。
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私の持っている「赤毛のアン」のシリーズは全部翻訳者が村岡花子さんです。今は色んな人が「赤毛のアン」を翻訳していますが、私にとっては、一番最初に馴染んで読みこなした翻訳です。

今回のこの2冊の翻訳者の村岡美枝さんは、アンのシリーズを最初に訳した村岡花子さんのお孫さんだと走り読みをしたときに判ったのですが、果たしてお祖母さんの翻訳とどう違っちゃうのかしら?と思いつつ読み始めました。

まだ上巻の半分くらいまでしか読んでいませんが、日本語に翻訳された文章の雰囲気は、お祖母さんの村岡花子さんの世界をそのまま踏襲されたものであって、長年のファンとしては、馴染みやすく前のままのイメージを(いい意味で)持ったまま読むことが出来ました。
もし、雰囲気が違ったら、訳す人が違うのだから違っても当然なのですが、一抹のがっかり感を持ってしまったかもしれません。

でも、私には同じように感じ取れました(少なくとも今の時点では。後日何度も読み直したら印象が変わるかもしれませんが・・・)



私は日本人ですから、普段読むものは当然日本語の本です。そして外国文学も日本語に翻訳されたものばかりです。だから、翻訳者の日本語力(翻訳力とでも言うべきかな?)で、その本の面白さと深みを味わいはかなり左右されると思います。

mammyと言う単語一つにしても、意味は一つですが、日本語の表現としては「お母さん」「おかあさん」(同じ読みでもニュアンスが微妙に違うと私は思っています、それと話し手の年齢とか精神状態とかでも異なるかと・・・)、「かあさん」、「かあちゃん」、「ママ」と、様々な言い回しがあります。その言い回しによって、話がまるっきり違う印象を与えると思うのです。

例えば・・・ローラ・インガルス・ワイルダーの「大草原の小さな家」シリーズでは、ローラ達は両親のことを「父さん」「母さん」と訳されることが多い(現にTVドラマでもそうだった)のですが、訳者によっては「父ちゃん」「母ちゃん」ってなっていて、それはそれは自分の中で勝手に作り上げたイメージとは言え、ガラガラと崩されてしまうのはとても哀しいことでもありました。

翻訳された物語と言うものは、訳す人の「翻訳力」、つまり正しい意味を、不自然さを感じさせなく、会話ならば登場人物の生い立ちや性別、年齢までを鑑みて如何に自然な日本語の文章にするかによって左右されると思います。単に、外国語の知識だけではなく、日本語の文章力も必要なものだと思います。


アンが引き取られた家のマシュウ(マシューではない)の口癖の「そうさな・・・」は素朴で口下手なマシュウの特徴をよく表していて、「そうだね」や「そうだな」では、マシュウではないように私は感じます。

だから、優れた日本語の文章力を持つ訳者さんの本は、読み手には強烈な印象を植え付けるものだと思います。
そのいい例が、井上一馬さん訳のアンジェリクのシリーズ。恐ろしいほどの文章力で、歴史恋愛モノのアンジェリクとハードボイルド系の87分署シリーズとは、内容が違うから当たり前ですが、分野が正反対のものでも訳されていました。だから、アンジェリクの英語版を読んでいても、私の頭の中には井上訳の文章が頭の中に浮かんでくるほどの影響があるのでした。


世代を超えて受け継がれた今回の「翻訳力」、おそらくお祖母さんの村岡花子さんの訳したアンの世界に近づけようとの過大な努力があったかもしれませんが、読者ファンにとっては大変嬉しい限りのものでした。
by mydreams_andy | 2012-11-03 09:00 | 読書・本 | Comments(0)